海口市咸来鎮

       
   

美村

虐殺現場への道 虐殺現場  
英文存さんが殺された場所。
当時は潅木や大木に覆われていて、自生の山芋が多かったという。  
美村の英魁原さん(1929年生)
 「村に遊撃隊がいるといって日本軍はなんども襲ってきた。
 祖父の弟2人が殺された。その1人、英文存は、いったんは逃げたが、食べるものがなくなり、村の近くに戻って山芋を掘っているとき見つかって殴り殺された。32歳だった」
美村の梁愛梅さん(1937年生)
梁愛梅さん  「3才のとき母が日本軍に斬り殺された。母はわたしをからだで覆うようにしっかり抱きかかえてくれた。
 それでわたしは首を傷つけられたけれども助かった。殺されたとき母は、20歳だった」。

美桐村

 日本軍は抗日武装部隊の兵站をつぶそうとして、その活動が活発な地域の村落を無人化していった。
 多くの村民が銃剣や日本刀で殺され、家を焼かれ、人がいなくなった「無人村」がたくさんあった。
 日本軍が敗退してから60年あまりが過ぎたいま、無人とされたままの村は少なくなったが、陽日村のように、いまは、バナナ畑になっている村もある。

美桐村の廃墟  
美桐村は、日本軍になんども襲撃され、無人村にされた。
日本敗戦後、村人が戻ったが、いまも、村の中に、廃墟となったままの家が10軒あまり残されている。
美桐村の西の「処刑場」跡
 日本軍が侵入してきたころは、このあたりは密林で、村の西に池があり、そのそばで日本軍は何人もの人を「処刑」した。

昌洽村

昌洽村を日本軍は1942年秋に数回襲撃し、その後、村内に「要塞兵舎」をつくった。
 昌洽村の「要塞兵舎」を拠点とする日本軍守備隊は、抗日武装部隊の兵站をつぶそうとして周辺の村を襲撃した。  

 
林紹富さん(1933年生)
林紹富さん
 「農業をしていた父、林克英は日本軍に共産党員だと思われて土橋で捕まって、拷問された。
 死んだとき、父は42歳、わたしは12歳だった。父は、半死の状態で家に戻ってきた。すごい熱で、苦しんでいた。
 からだが黒ずんでいた。父は日本軍に毒を注射されたと言っていた。あまり熱が高いので、父のからだに水をかけた。
 父は半月後に、苦しみながら死んだ。父の遺品はなにもない。父は、よく冗談をいう優しい人だった」。
  

美良村

   

日本軍が襲撃した王綏川さんの家の跡
王綏川さん(1931年生)
 
美良村の周光春さん(1924年生)
日本軍に姉を殺された
日本軍によって廃墟とされたままの王綏川さんの隣家の跡
王禄全さん(1911年生)と
妻の符蘭香さん(1911年生)
王禄全さん  「日本軍が来て、50軒以上あった家を焼いた。逃げ遅れた人は殺された。  村は、しばらく無人村になった」。


王綏川さん
「学校教師だった父は、日本軍が来る前に、国民党軍に殺された。
 7歳のとき、日本軍に家を焼かれた。この家で母が、日本軍に腹を刺された。腸がとびだしていた。
 村人が介抱してくれたが、7日後に死んだ。母は、30歳をすこし過ぎていた。
 父も母もいなくなり、食べるものがなくて、水ばかりのんでいた。兄弟はみんな死んだ。餓死同様だった。
 5人兄弟でわたしは2男だ。自分ひとりだけが生き残った」。
  

丹村(旧、攀丹村)

焼け残った材木を使った家の柱
蘇家礼さん(1929年生)
「2年間、逃げて山で暮らした。食べるものがなかった。
 夜、芋をほって食べた。兄弟がどこにいるか、いまも分からない。
 日本軍がいたとき、ここに住んでいる人は、病気で死なない。日本軍に殺されて死ぬ。
 この村で、20〜30人、殺された」。
『符氏族譜』の符功欽さんの名のところに 「抗日犠牲」と書かれている
蘇雪香さん(1923年生)  符功欽さんの妻
 「16歳のとき結婚した。
20歳のとき、夫がどこかにいってしまった。
なにをしに、どこにいったかわからなかった。
 夫が共産党の遊撃隊に入っていて、1944年に日本軍と戦って死んだと、1945年に知らされた。
 知らしてくれたのは夫といっしょに戦っていた人だ。 
 夫が死んだのは、ここから10キロほど離れた三江鎮の竹家山だった。
 遺骨を探しだし、村につれてきて埋めた」。
  
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